阪急電車「千里山」駅は大正10年(1921年)から昭和38年(1963年)まで42年間、阪急千里山線の終点でした。駅舎は 何度か装いを新たにしてきましたが、現在の駅舎の、とんがり帽子のような三角屋根とレンガ色の窓枠は、阪急のどの駅よりもユニークで、やはり千里山駅ならではのものでしょう。
千里山駅の付近は、かつては佐井寺の西の端で、大正初年まで一軒の人家も無くなく、ほとんど佐井寺の出作地でした。この駅ができたころ、千里丘陵の真ん中に十万の人口を持つ新しい街ができることを、誰が予想したでしょうか。大阪の中心、梅田へは30分、関西大学まで歩いて15分でした。
英国・ロンドン北郊のレッチワースをモデルに開発された千里山には、街のシンボルとして噴水がつくられていました。開発当初は第一号から第五号まであり、とくに第四号はコンクリート製の木の幹を並べた池の周りに植樹が趣のあるものでした。第五は階段を50~60段昇った高台の千里山水源地の東下にあり、六甲山、尼崎の海、淡路島まで見渡せる眺望のよいところで、桜の木もたくさん植えられており、水源地の上は360度の眺望が楽しめました。
現在残っている第一、第二噴水の彫刻は昭和54年(1979年)3月に西五丁目在住の故・大谷正雄氏が寄贈されたものです。第一噴水は千里山西地区の中心で、ここから放射状に道が分かれます。かつては公開テレビや火の見やぐらがありました。貴重な交流の場になっています。第二噴水は第一噴水とは赴きも異なり、住宅街の中ひっそりと落ち着いた雰囲気の公園です。
昭和3年(1928年)の千里山住宅地の戸数は約400戸だったといいます。中央部の第一噴水を中心として放射状に街区 を設置し、ガス・水道・電気などの設備を備えていました。現在でも千里山西地域の住宅の中には、昭和初期の洋風や和洋折衷の建築も残り、住宅・石垣・生け垣が周囲と調和した、独自の大正モダンの香りを感じさせる景観がみられます。
千里山は坂の多い街です。地形の起伏に沿ってつくられた道路は、緩やかに変化し、歩いているといろいろな景色に出くわします。効率優先の開発による大きな擁壁も少なく、自然で変化のある親しみやすい街並みができる要素の一つになっています。
千里山の住宅地は、良好なコミュニティーと魅力的な環境によって、”千里山ブランド”として高く評価されています。しかし近年、相続・売買に伴う敷地の細分化、マンション建設によって、次第にコミュニティーや街並みが変わってきました。一方、周辺地域に配慮された開発によって、新たに良好な環境を創り出し、高い資産価値を生み出しているものもあります。開発が環境の低下を招くのではなく、周辺の資産価値が高まるような計画を開発業者とともに考えていきたいものです。
吹田市には3カ所の風致地区が指定されていますが、そのうちの2カ所が「千里山西」と「千里山東」で、①高さは15m以下とすること②建ぺい率は40%以下とすること③外壁面は道路から1.8m、隣地からは1.0m以上離すこと④一定割合の植栽密度、緑化率を満たすこと-などが定められています。高台から望むのもよし、いくつもの道が交わる角の家から眺めるのもよし、至るところにみられる、古いものと新しいものがうまく共存した街並みの変化など、千里山をぜひ一度、歩いて体感してみてください。
千里山神社は大正15年(1926年)、京都・伏見稲荷から末広大神をお迎えしたのが起源といわれています。その後、佐井寺の氏神「伊射奈岐命(いざなぎのみこと)」も合祀され、氏神として地域と深く結びついた神社です。
社殿の左手には「春姫大明神」と刻んだ自然石の碑が立っていて、その前には吉本興業を起こした吉本勢が寄贈した石製の蝋燭(ろうそく)立てがあります。
社殿より一段高いところに、上水道の配水池(水源地)があります。吹田市の水道部で管理しているのですが、元は千里山住宅開発と同時にできた配水池でした。夏は冷たく、冬は温かく、水の旨さは当時の大日本麦酒(現在のアサヒビール)のビールの旨さとともに、近隣に鳴り響き大阪の人々を驚かせていました。
千里山には北摂山系、箕面台地、千里丘陵をくぐり抜けた地下水があちこちで湧き出ています。その中でも吹田の三名水と呼ばれている「垂水の冷泉「佐井の清水」「泉殿の霊泉」が代表的なものとされています。千里の大森林をくぐり抜けた地下水が湧き出る垂水の冷泉は、どんなに日照りが続いた時でも水が涸れることがなく、無病息災・長寿の神泉とされています。
水源地は千里山の最高峰で、360度の眺望があり、伊丹空港へ降りる飛行機や、箕面の連山、生駒の山垣、大阪城の天守閣、尼崎の海岸、淡路島など四季折々の姿を楽しむことができました。
昭和32年(1957年)落慶の千里寺本堂は、関西大学が昭和天皇大嘗祭の建物(饗宴場=迎賓閣)の一部を譲り受け、講堂・武道館「威徳館」として使用していたものを、昭和28年(1953年)に移築したものです。この建物は、単層入母屋造り銅板葺き(平成4年に瓦葺きに葺き替え)で、大ホールやステージの一部、花模様が描かれた格天井、3基のシャンデリア・外灯が残っています。千里寺本堂は平成14年(2002年)、登録有形文化財となりました。
千里第二小学校旧木造校舎[復元](千里山・佐井寺図書館)千里第二小学校の旧木造校舎が、昭和4年(1929年)に建築されました。平成14年(2002年)に老朽化のため解体されるまで、吹田市内最後の木造建築の小学校校舎として、その姿を留めていました。平成16年(2004年)5月にオープンした千里山・佐井寺図書館の西館は、その千里山第二小学校の旧木造校舎のイメージを再現しています。旧校舎で使われていた教壇や階段の手すり、金具など、使用可能なものはそのまま使い、当時の教室も復元しています。玄関前の大正15年(1926年)と刻まれた石製の門柱や、楠や銀杏の大木が往時の姿を偲ばせてくれます。
千里山遊園は、大正10年(1921年)に「千里山花壇」として開園し、昭和25年(1950年)に閉園するまで人々に親しまれました。目玉は日本で最初といわれた飛行塔でした。昭和21年当時、飛行塔のほかに、サークリングウェーブ、子ども汽車、動物園などの施設があり、昭和22、23年には菊人形展も開かれました。この菊人形展が、後にNHK大河ドラマをテーマにし長く開催されることになる、「ひらかたパーク」の菊人形展のルーツです。
関西大学は、大正7年(1918年)公布の大学令によって大学昇格に必要となる校地を探していたところ、当時の北大阪電気鉄道の誘致を受けたこの千里山が、景勝地であり環境にも恵まれていたことから最適と判断。ここ千里山に関西大学の学舎が建設され、大正11年(1922年)に開校しました。
昭和30年(1955年)ごろ、「君の名は」で一世を風靡した佐田啓二と岸恵子が、関西大学で映画「亡命記」のロケを行いました。「君の名は」の二人を一目見ようと多くの人々が集まったようです。このロケが行われた野外音楽堂だった場所には、現在関西大学100周年記念会館が建っています。
関西大学簡文館は、現在の総合図書館が建設される以前は、長い間、図書館などの施設として利用されていました。設計者は昭和を代表する建築家の一人、村野藤吾です。簡文館内に博物館がオープンしたのは平成6年(1994年)で、本山彦一コレクション(元毎日新聞社主)を中心とした考古学および関連資料約1万5000点を収蔵しています。建物の横には市内最大といわれる株立ち9本のくすのきがあります。