約20万年前、隆起してできた千里丘陵 「千里山のあゆみ」を見る前に、もう少し俯瞰で吹田市域に含まれる千里丘陵の形成、成り立ちに触れておきましょう。吹田市が市制70年を記念して刊行した『わかりやすい吹田の歴史 本文編』(吹田市立博物館編集)によると、約300万~180万年前には、大阪盆地には古大阪湖と呼ばれる湖が広がっていましたが。約150万年ほど前になると、初めて海が侵入してきました。以後、海の侵入と後退が10回以上繰り返され、主に礫層、砂層、淡水成粘土層、海成粘土層が幾重にも重なった大阪層群という地層群ができました。
大阪層群は約80万年前に起こった六甲変動という地殻変動によって少しずつ隆起し始め、約20万年前に、現在の千里丘陵の原形ができたのです。隆起地形である千里丘陵は、古環境を知るためのデータの宝庫です。露見した地層、地層の堆積年代の決め手となるピンク火山灰層やアズキ火山灰層、アケボノゾウやマチカネワニの化石など、遥か太古の自然環境が私たちの足下に眠っているのです。
8km四方の広大な千里丘陵 この千里丘陵はおよそ8km四方の広さを持ち、豊中市域の標高133.8mの島熊山が最高地点で、なだらかな丘陵尾根を成し、また深く谷筋が切り込まれています。丘陵には良好な粘土と薪を原材とする土器や瓦を焼く人々が入り、佐井寺・山田村といった丘陵内部の湧水地点に自然発生的に生まれた村、新田村のように丘陵部の新田開発によって生まれた村などがあり、その開発者の姿や村の発展の過程は全く異なります。
「千里山」地名の由来 「千里山」の地名は、どのようにして出来たのでしょうか?「千里」は現在では「せんり」と読んでいますが、「千里村」が出来た頃には「ちさと」と発音していました。そして、「千里」にはいくつかのいわれがあります。『千里山70年のあゆみ』によると、紀元前約百年、漢の司馬遷が書いた『史記』に「照千里 守一隅」(千里を照らし一隅を守る)の名句があります。このほか、白楽天は「昨夜雲四散し、千里月色同じ」、李白は「呉州好く月を見る 千里をへだてて、相思う」と詠んでいます。
嵯峨天皇が「千里」の名を付けた? 日本では平安時代、嵯峨天皇勅撰の詩句に「愁うなかれ千里苦心多きを」があります。同天皇は何度も山崎、水無瀬、河内交野、佐井寺に遊猟しました。そのころ遊猟は、装備を固めた群家を動員して山野を駆け巡る軍事演習でもあり、同天皇は淀の流れを千里の中国の長江になぞらえ、山崎を河陽と称したのです。中国の漢詩、そして詩歌にも通じ、稀代の能書家でもあった嵯峨天皇こそ、この丘陵に初めて「千里」の名前を付けた人物ではないでしょうか。
江戸時代の文献に数多くみられる「千里山」 時代は下ります。『摂津志』(1716~1734年)は豊島群の条に「千里山は群の中央にあり島下群に連亘す、一名、根山、島熊山、待兼山、玉坂山、以上三山皆千里山脈…」とあり、『摂津名所図会』(1798年)では、「広大なるを以て千里(ちさと)山と称す…またの名、寝山という、熊野田村の上方にして島下、豊島の二群に続いて山脈三里に及べり、九十九谷あり」と丘陵全域のことが書かれています。明治10年8月の『大阪府管内地理小誌』は、これらを総合して「千里山は豊島群の中央にあり(実際には島下群との境界)、其脈の北に赴くものを待兼山、玉坂山と云い、南に連なるのを榎坂山、垂水山と云い、東に亘るものはすべて島下群西部の諸山なり…」と現在の千里丘陵全域を示しています。
「三島郡」が歴史上に現われるのは白鳳時代「千里」もしくは「千里村」の沿革を見る前に、千里が属した郡名から見てみましょう。「千里村」村史によると、三島郡は古くから三島、三島縣(あがた)、三島郡(ごおり)の名で呼ばれていました。白鳳時代(645~710年)になって、分かれて島上(志末乃加美)、島下(志末乃毛)の二郡となりました。初めて歴史上に現われるのは、元明天皇の御代(707~715年)の和銅年間(708~714年)です。ざっと、いまから1300年も前のことです。
後醍醐天皇の建武元年(1334年)になって、一時は島下郡、水田郡、太田郡の名を混用したこともありましたが、後水尾天皇の御代、寛永年間(1624~1646年)に本来の島下郡の名に統一されました。そして、明治29年(1896年)4月1日を以て、三島郡(みしまごおり)に改められました。
佐井寺・片山村の両村合併で「千里村」が誕生 「千里村」は明治22年(1889年)4月1日、町村制の施行に際し、佐井寺、片山の両村が合併、その中央にある千里山の名を採って千里(ちさと)村と名付け、両村はその大字となりました。この大字千里山は、もと山田荘の内でしたが、後に佐井寺村と称し、また千里村大字佐井寺と呼称される区画となりました。
「千里山」の名称が使われ、広く知られるようになるのは、旧佐井寺・片山村の一部が分離、同地に、後述する一大文化住宅街の建設が推進されるようになってからのことなのです。
千里山線敷設の経緯 大正4年(1915年)9月9日、「経便鉄道免許申請書」が発起人9名によって、内閣総理大臣、大隈重信宛に提出されたのが千里山線の開通と、千里山住宅地開発の発端でした。阪急電鉄千里線は、大阪市近郊で人口、企業が集中する重要な地域であるにもかかわらず、交通不便な吹田町近辺に交通の利便性をもたらすことを目的に、北大阪電気鉄道により大正4年(1915年)9月に計画されました。当初は終点の千里丘陵の一角に広大な遊園地、墓地、葬儀所を開発する計画もありました。
天神橋から北長柄、柴島、下新庄、吹田町を経て千里村に達するルートには大正元年(1912年)に東海道線が淀川北岸と吹田の間で付け替えられた廃線を利用しますが、ルート上の淀川架橋が資金難のため工事が進まず、代わって千里-十三の支線が計画され、大正10年(1921年)に十三-淡路-豊津間に敷設され、同年4月に開業し、当初は単線でした。
淡路-十三-梅田の鉄道網が昭和32年に現在の姿に千里山までの延伸、運転が開始されたのは半年後の10月26日で、途中、千里山花壇駅が設置されたり、関西大学の移転に応じて大学前の駅も設置されました。大正12年(1923年)には経営が京阪電鉄の子会社、新京阪電気鉄道に移りました。天神橋-淡路間は大正14年(1925年)10月開通。天神橋駅ビルが完成。昭和3年(1928年)11月には淡路を起点に京都・四条大宮や嵐山に行けるようになりました。また、経営が阪急に移り、梅田まで行くのに淡路と十三駅で乗り換えていたのが、昭和19年(1944年)十三まで直通となり、昭和32年(1957年)ようやく現在の姿となりました。
100戸の第一次入居から千里山の街の歴史がスタート 大阪住宅経営株式会社が千里丘陵の一画(9万8300坪)に、住宅経営の鍬を入れたのが大正9年(1920年)。千里山一帯をイギリスの田園都市をモデルに「郊外生活の理想郷」などと宣伝し、「理想的田園都市」を目指した土地付き建て売り住宅と、借家として、大阪住宅経営㈱によって住宅開発が進められました。それまで千里丘陵は、大阪からは「鬼門」にあたるというので、宅地開発の手は付けられていなかったのです。
が、よりよい住環境を求めている人が増えたことで、400戸が計画され、大正12年ごろ100戸が第一次入居し、千里山の街の歴史が始まりました。この大阪住宅経営㈱は、大阪商工会議所会頭・山岡順太郎(後の関西大学学長)氏はじめ、林大阪府知事、池上大阪市長らによって大正9年(1920年)3月に設立された会社です。
モダンな洋風建築が特徴的な田園都市・千里山 当初の千里山住宅は周囲を松や竹、桃畑に囲まれた、まさに「田園都市」で、明らかにそれまでの和風建築とは違う、屋根・窓の形状、レンガの生垣、そして楠、桜などの街路樹などが特徴的な、モダンな洋風建築の家並みが印象的でした。今日でも千里山の街では、神社や寺院も含め和洋折衷の建物がそこ・ここに残っており、当時をしのばせます。
住宅建設に合わせて大阪へのアクセスも急ピッチで整備され、上記の通り、大正10年(1921年)には北大阪電気鉄道が十三-淡路-千里山間を開通させました。その結果、一挙に現在の阪急電鉄千里線(当時は千里山まで)と、千里山西一、四、五丁目の住宅街ができあがったのです。
住宅は和・洋式があり、20坪内外が主流 千里山住宅は建坪10坪から36坪で、20坪内外の規格が最も多く、日本式と洋式がありました。平面の特徴は、日本は中廊下を用いて室の通り抜けを防ぎ、一階南側と二階に本床付きの座敷を設けること。洋式は、屋根は洋風瓦ホール、中廊下を用いて室の独立性を高め、洋風の板の間を採用し、リノリューム張り。窓ガラスはパテ押さえ、外観音開き、外壁は板横張りにしていることなどが特徴でした。
坂の街・千里山が当初共同浴場にこだわった理由 千里山の街の特徴は、起伏に富んだ丘陵を開発して造られた「坂の街」という点です。街の最も高い場所は駅より50mほど高く、この坂道と石垣と緑の生垣が一つの風情となっています。街ができた当時は、石炭や薪で湯を沸かすと煤(すす)で街中が汚れるからと、新しく開発された街なのに、各戸に風呂をつくらず、共同浴場をつくったのです。「いつまでも綺麗な街」に、こだわったのです。その結果、新興住宅街では珍しい「銭湯」を楽しむことができ、かえって人気があったようです。そして大正末期から昭和初期には、大正12年に起こった「関東大震災」で被災して、関東からこの千里山に移ってきた人たちが半数近くを占め、銭湯では関西弁と関東弁が飛び交ったといいます。
昭和6年の千里山は464世帯、人口2133人 イギリスの田園都市に倣い、駅を中心にした噴水ロータリーから延びる放射状の街区計画、上下水道・ガス、集会所兼ビリヤードなど娯楽施設でもある千里会館や、当時上層階級のスポーツだったテニスコート、遊園地、駐在所、売店(商店)、公衆浴場、理髪店、小学校、幼稚園などの施設が計画されました。ただ、遊園地は宅地販売優先のため造られず、敷地は住宅に代わることになりました。
大正13年(1924年)には戸数約170戸、人口300余人でしたが、昭和6年(1931年)12月には世帯数464戸、人口2133人となり、さらに千里山は戦後、公団千里山団地が開発されるなど、吹田市が大阪のベッドタウンとして発達していく基礎となりました。
大正14年6月からラジオ放送開始 ところで、大正末期に大都市圏の通信網に大きな変化がありました。大正13年(1924年)11月25日に東京放送局、翌14年1月10日に名古屋放送局、同年2月28日に大阪放送局が、逓信省より設立の許可を得ました。そして、社団法人大阪放送局(JOBK)は6月1日午後0時10分、三越呉服店大阪支店(大阪市東区高麗橋)屋上の仮放送施設よりラジオ放送の仮放送を開始したのです。開始時の聴取加入申し込み数は約7000件、以後放送網は大阪府を中心に近畿、中国、四国、九州と西日本一帯におよび、翌15年8月20日には聴取加入者数は約7万1000人にも上りました。この年8月、大阪・東京・名古屋の3局が合併して日本放送協会が設立され、大阪放送局は「大阪中央放送局」と改称されました。
千里放送所の開設、本放送開始 放送施設は大阪市天王寺区上本町9丁目に新設され、大正14年(1925年)12月1日から本放送を開始しましたが、出力が弱かったことから電波を増幅して送信する放送所を郊外に新設することになりました。その放送所の建設地に選ばれたのが、国鉄吹田駅より東北約2kmにある三島郡千里村大字片山(現在の片山町)の地でした。千里放送所は敷地約4500坪、敷地中央に鉄筋コンクリート2階建て、放送機械室が330坪、倉庫木造物10坪、附属舎宅7戸113坪で、2基の自立鉄塔は高さ60mでした。放送機器はイギリスのマルコにー会社製10kw放送機。昭和3年(1928年)4月中旬から試験電波を発射し、5月20日に本放送(周波数750kHz、10kw)を開始しました。千里放送所の開設により、千里村、吹田町、岸部村、豊津村のラジオ感度が飛躍的によくなりました。
1町3村の合併により吹田市が誕生 大正から昭和にかけて三島郡吹田町・千里村・岸部村、豊能郡豊津村は人口の増加が著しく、もともと行政面で関係の深かったこの1町3村は昭和14年(1939年)、合併による新市誕生へと一気に動き出しました。昭和14年末の戸口調査では、吹田町(5722平方㎞)8570戸、3万6089人、千里村(6756平方㎞)2867戸、1万3057人、岸部村(3517平方㎞)964戸、4614人、豊津村(4457平方㎞)1224戸、6865人と記録されています。そして、昭和15年(1940年)4月、吹田市は大阪府下7番目の市として新た。な歩みを始めたのです。『吹田市広報』市制十周年記年号では、昭和15年の市制施行時の人口は6万3189人と記されています。またこの年10月1日に行われた国勢調査では、世帯数1万4326戸、人口6万6094人でした。
「隣組」「愛国少年団」の時代 「隣組」といっても、とっさには理解されない世代の人が増えていると思います。が、中国で日華事変(1937年)が起こり、日本が太平洋戦争(1941~45)に突入していく直前の戦時経済統制下で組織されたのが、この「隣組」です。「トントン トンカラリト トナリグミ…」。こんな歌がラジオから流れ、千里山にも隣組の組織ができ、東西南北、大学前、円山、桃竹、永楽園の町会ができました。子供たちも巻き込んで、戦前のボーイスカウトや千里山少年団は解散、「愛国少年団」に吸収されました。暗い時代への始まりでした。
昭和15年(1940年)に町内会、隣組常会設置の組織化が行われ、翌16年4月に米穀の通帳制配給が実施されたときは、町会・隣組が住民の総数を把握していました。隣組は、初期においては常会が開かれ、近所付き合いが簡略化されるとか、苦情がいい易い、民意の上達についても期待する傾向がありました。
「隣組」から「自治会」へ しかし、臨戦態勢が強化されるにつれて変わっていきました。隣組は国策遂行のための”上意下達”の機関としての役割のみが強調され、物資の配給、貯蓄の増強、国債の割り当てから勤労奉仕、防空演習に至るまで、国民は一様に駆り立てられていきました。町会には町籍簿が備え付けられ、切符制、登録制による生活日用品、雑貨類の割り当て配給、妊産婦の届け出、市民の転入・転出などもこの町籍簿によって処理されました。
戦後(昭和20年)、隣組は廃止され、新たに自治会組織ができました。ただ、これは今日のような自治会ではなく、最初は当時の世相を反映して、地域の防犯自衛が活動の主体でした。事務所は、戦前から千里山会館に置かれていました。
千里山移転が関西大学発展の礎に 関西大学の前身、関西法律学校は明治19年(1886年)11月4日、大阪市西区京町堀上通3丁目36番地の願宗寺で創立されました。ボアソナード博士のフランス法律を学んだ門弟、裁判官たちが児島惟謙控訴院長。のもとに集まり、庶民のために開かれた学校でした。この学校が大正7年(1918年)に公布された文部省による大学令で、正式な大学昇格のためには相当広大な校地と校舎が必要となり、新しい校地として白羽の矢を立てたのが郊外の千里山でした。大正10年(1921年)7月、千里山学舎の建設が着工され、翌11年(1922年)4月に2階建て、延1226坪の学舎が竣工しました。同年6月大学令による大学として、関西大学の認可が文部省より下され、昇格を果たすことができました。いわば千里山への移転で、今日の関西大学の原形が整備されたのです。そして、その後の同大の発展の礎となったのです。
千里山と関西大学とは深い結び付き 千里山丘陵地への関西大学の移転は、大阪住宅会社の住宅開発とともに、丘陵地の開発を成し遂げ、吹田市域に多くの大学を誘致する端緒となったのです。関西大学と千里山との結び付きは、千里山住宅地開発の発起人で、そのために設立された大阪住宅経営㈱の社長を務めた当時の大阪商工会議所会頭の山岡順太郎氏が、後に関西大学学長に就いているように地域的にはもちろん、人脈的にも極めて深いものがあります。山岡氏は大阪住宅経営㈱で、この事業は社会的事業であるとし、俸給は一切受け取らず責任を果たし、社会と会社のため尽くされたといいます。
人気集めた千里山遊園は廃業、現在、関西大学施設に 千里山遊園は大正10年(1921年)、大阪電気鉄道が千里山花壇として開園し、昭和13年(1938年)、千里山遊園と改称されました。園内には飛行塔、野外音楽堂、ボート池、人工滝、小動物園などの施設があり、人気を集めていました。昭和21年(1946年)には菊人形展が開催されました。しかし戦後、枚方パークで菊人形展が再開されたため、千里山遊園は衰退し、昭和25年(1950年)に廃業しました。閉園後、関西大学が跡地6万6120㎡を購入し、関西大学外苑と命名しました。その後、関西第一中学校・高等学校が設置され、野外音楽堂だったところも創立百周年記念会館が建てられています。
千里ニュータウンは全国の建設計画のモデルに 千里ニュータウンは高度経済成長期、都市への人口集中による住宅不足、土地の乱開発による住環境悪化に対応するために大阪府企業局が開発した日本で最初の本格的な計画人工都市です。昭和33年(1958年)5月、開発決定がなされ、昭和35年(1960年)10月にはマスタープランがまとめられました。単なる団地ではなく、健康で文化的な生活を享受でき、様々な交通網やアメニティ施設を整えた「理想的な住宅都市」を目指し、基本的なコンセプトは「大阪近辺に勤務する中低所得者を主体に、一部高額所得層を加えた安定した住宅地域で、独自の文化をもつまち」でした。千里ニュータウンの計画は、後に作られる全国のニュータウン建設計画のモデルプランとなり、大きな影響を与えました。
昭和36年(1961年)7月、起工式が行われ、昭和37年(1962年)9月には佐竹台で第一期入居が開始され、11月に街開きが行われました。それまで地縁、血縁を持たない人たちが集まった住民たちは新たにコミュニティーを形成し、文化施設を作り、イベントを実施して新たなふるさとにしていきました。
人口減少と高齢化、老朽化で再整備が課題に 千里ニュータウンの目標人口は3万戸(その後3万7000戸)15万人でしたが、人口は昭和50年(1975年)の約12万9000人をピークに、次第に減少傾向をたどっています。そのため、市は対策に乗り出し、平成22年(2010年)現在、少子核家族化による人口減少と高齢化問題、住宅の老朽化、近隣センター、地区センターの活性化、良好な自然環境の保全など住環境の再整備などが問題となっています。
千里丘陵開発の推進力となった千里ニュータウンと万博 千里山をはじめ吹田市の新たな交通系・道路系の整備は、既述の千里ニュータウンの完成や次項で述べる万国博覧会の開催が契機となりました。千里ニュータウン計画に伴い、基幹となる交通系として阪急千里山線の北への延長が予定されました。昭和38年(1963年)9月、千里山-新千里(現・南千里)間、約1.67kmの路線が開通し、同時に千里山線の名称が千里線に改められました。千里ニュータウンの造成に従い、昭和42年(1967年)4月、千里線が新千里から北千里まで延伸し、新千里駅は南千里と改称されました。
昭和40年(1965年)、千里丘陵での万国博覧会の開催が決定すると、梅田と新大阪駅を繋いで万博会場にも通じる路線の敷設が急務となりました大阪市営地下鉄一号線(御堂筋線)は吹田市域の江坂駅が終点です。それより北の千里中央駅までの路線は北大阪急行電鉄によって経営されることになりました。昭和45年(1970年)、大阪市営地下鉄一号線と北大阪急行電鉄が吹田市域に敷設され、万博期間中は万博中央口駅までの仮設路線が設けられました。
日本万国博覧会開催が道路・交通網整備を加速 昭和45年(1970年)、アジアで最初の万国博覧会として「人類の進歩と調和」をテーマに77カ国が参加し、北部の千里丘陵を会場に日本万国博覧会が開催されました。3月14日に開会式が行われ、3月15~9月13日までの会期中の入場者数6421万人は予想をはるかに上回るものでした。この日本万国博覧会の開催によって吹田の名が全国に知られるようになりました。当時日本は高度経済成長のピークであり、万国博覧会は東京オリンピックに次ぐ国家的プロジェクトでした。
万国博覧会開催を機に千里丘陵の開発はさらに進み、交通も新御堂筋、中央環状線、中国自動車道、吹田インターチェンジ、豊中岸部線(岸辺駅地下道)、市役所前の高架道路、北大阪急行などの道路、鉄道が一挙に整備されました。