icon-power-off 千里山のあゆみ②

 100戸の第一次入居から千里山の街の歴史がスタート 大阪住宅経営株式会社が千里丘陵の一画(9万8300坪)に、住宅経営の鍬を入れたのが大正9年(1920年)。千里山一帯をイギリスの田園都市をモデルに「郊外生活の理想郷」などと宣伝し、「理想的田園都市」を目指した土地付き建て売り住宅と、借家として、大阪住宅経営㈱によって住宅開発が進められました。それまで千里丘陵は、大阪からは「鬼門」にあたるというので、宅地開発の手は付けられていなかったのです。
 が、よりよい住環境を求めている人が増えたことで、400戸が計画され、大正12年ごろ100戸が第一次入居し、千里山の街の歴史が始まりました。この大阪住宅経営㈱は、大阪商工会議所会頭・山岡順太郎(後の関西大学学長)氏はじめ、林大阪府知事、池上大阪市長らによって大正9年(1920年)3月に設立された会社です。
 モダンな洋風建築が特徴的な田園都市・千里山 当初の千里山住宅は周囲を松や竹、桃畑に囲まれた、まさに「田園都市」で、明らかにそれまでの和風建築とは違う、屋根・窓の形状、レンガの生垣、そして楠、桜などの街路樹などが特徴的な、モダンな洋風建築の家並みが印象的でした。今日でも千里山の街では、神社や寺院も含め和洋折衷の建物がそこ・ここに残っており、当時をしのばせます。
 住宅建設に合わせて大阪へのアクセスも急ピッチで整備され、上記の通り、大正10年(1921年)には北大阪電気鉄道が十三-淡路-千里山間を開通させました。その結果、一挙に現在の阪急電鉄千里線(当時は千里山まで)と、千里山西一、四、五丁目の住宅街ができあがったのです。
 住宅は和・洋式があり、20坪内外が主流 千里山住宅は建坪10坪から36坪で、20坪内外の規格が最も多く、日本式と洋式がありました。平面の特徴は、日本は中廊下を用いて室の通り抜けを防ぎ、一階南側と二階に本床付きの座敷を設けること。洋式は、屋根は洋風瓦ホール、中廊下を用いて室の独立性を高め、洋風の板の間を採用し、リノリューム張り。窓ガラスはパテ押さえ、外観音開き、外壁は板横張りにしていることなどが特徴でした。
 坂の街・千里山が当初共同浴場にこだわった理由 千里山の街の特徴は、起伏に富んだ丘陵を開発して造られた「坂の街」という点です。街の最も高い場所は駅より50mほど高く、この坂道と石垣と緑の生垣が一つの風情となっています。街ができた当時は、石炭や薪で湯を沸かすと煤(すす)で街中が汚れるからと、新しく開発された街なのに、各戸に風呂をつくらず、共同浴場をつくったのです。「いつまでも綺麗な街」に、こだわったのです。その結果、新興住宅街では珍しい「銭湯」を楽しむことができ、かえって人気があったようです。そして大正末期から昭和初期には、大正12年に起こった「関東大震災」で被災して、関東からこの千里山に移ってきた人たちが半数近くを占め、銭湯では関西弁と関東弁が飛び交ったといいます。
 昭和6年の千里山は464世帯、人口2133人 イギリスの田園都市に倣い、駅を中心にした噴水ロータリーから延びる放射状の街区計画、上下水道・ガス、集会所兼ビリヤードなど娯楽施設でもある千里会館や、当時上層階級のスポーツだったテニスコート、遊園地、駐在所、売店(商店)、公衆浴場、理髪店、小学校、幼稚園などの施設が計画されました。ただ、遊園地は宅地販売優先のため造られず、敷地は住宅に代わることになりました。
 大正13年(1924年)には戸数約170戸、人口300余人でしたが、昭和6年(1931年)12月には世帯数464戸、人口2133人となり、さらに千里山は戦後、公団千里山団地が開発されるなど、吹田市が大阪のベッドタウンとして発達していく基礎となりました。
 大正14年6月からラジオ放送開始  ところで、大正末期に大都市圏の通信網に大きな変化がありました。大正13年(1924年)11月25日に東京放送局、翌14年1月10日に名古屋放送局、同年2月28日に大阪放送局が、逓信省より設立の許可を得ました。そして、社団法人大阪放送局(JOBK)は6月1日午後0時10分、三越呉服店大阪支店(大阪市東区高麗橋)屋上の仮放送施設よりラジオ放送の仮放送を開始したのです。開始時の聴取加入申し込み数は約7000件、以後放送網は大阪府を中心に近畿、中国、四国、九州と西日本一帯におよび、翌15年8月20日には聴取加入者数は約7万1000人にも上りました。この年8月、大阪・東京・名古屋の3局が合併して日本放送協会が設立され、大阪放送局は「大阪中央放送局」と改称されました。
 千里放送所の開設、本放送開始 放送施設は大阪市天王寺区上本町9丁目に新設され、大正14年(1925年)12月1日から本放送を開始しましたが、出力が弱かったことから電波を増幅して送信する放送所を郊外に新設することになりました。その放送所の建設地に選ばれたのが、国鉄吹田駅より東北約2kmにある三島郡千里村大字片山(現在の片山町)の地でした。千里放送所は敷地約4500坪、敷地中央に鉄筋コンクリート2階建て、放送機械室が330坪、倉庫木造物10坪、附属舎宅7戸113坪で、2基の自立鉄塔は高さ60mでした。放送機器はイギリスのマルコにー会社製10kw放送機。昭和3年(1928年)4月中旬から試験電波を発射し、5月20日に本放送(周波数750kHz、10kw)を開始しました。千里放送所の開設により、千里村、吹田町、岸部村、豊津村のラジオ感度が飛躍的によくなりました。
 1町3村の合併により吹田市が誕生 大正から昭和にかけて三島郡吹田町・千里村・岸部村、豊能郡豊津村は人口の増加が著しく、もともと行政面で関係の深かったこの1町3村は昭和14年(1939年)、合併による新市誕生へと一気に動き出しました。昭和14年末の戸口調査では、吹田町(5722平方㎞)8570戸、3万6089人、千里村(6756平方㎞)2867戸、1万3057人、岸部村(3517平方㎞)964戸、4614人、豊津村(4457平方㎞)1224戸、6865人と記録されています。そして、昭和15年(1940年)4月、吹田市は大阪府下7番目の市として新た。な歩みを始めたのです。『吹田市広報』市制十周年記年号では、昭和15年の市制施行時の人口は6万3189人と記されています。またこの年10月1日に行われた国勢調査では、世帯数1万4326戸、人口6万6094人でした。
 「隣組」「愛国少年団」の時代 「隣組」といっても、とっさには理解されない世代の人が増えていると思います。が、中国で日華事変(1937年)が起こり、日本が太平洋戦争(1941~45)に突入していく直前の戦時経済統制下で組織されたのが、この「隣組」です。「トントン トンカラリト トナリグミ…」。こんな歌がラジオから流れ、千里山にも隣組の組織ができ、東西南北、大学前、円山、桃竹、永楽園の町会ができました。子供たちも巻き込んで、戦前のボーイスカウトや千里山少年団は解散、「愛国少年団」に吸収されました。暗い時代への始まりでした。
 昭和15年(1940年)に町内会、隣組常会設置の組織化が行われ、翌16年4月に米穀の通帳制配給が実施されたときは、町会・隣組が住民の総数を把握していました。隣組は、初期においては常会が開かれ、近所付き合いが簡略化されるとか、苦情がいい易い、民意の上達についても期待する傾向がありました。
 「隣組」から「自治会」へ しかし、臨戦態勢が強化されるにつれて変わっていきました。隣組は国策遂行のための”上意下達”の機関としての役割のみが強調され、物資の配給、貯蓄の増強、国債の割り当てから勤労奉仕、防空演習に至るまで、国民は一様に駆り立てられていきました。町会には町籍簿が備え付けられ、切符制、登録制による生活日用品、雑貨類の割り当て配給、妊産婦の届け出、市民の転入・転出などもこの町籍簿によって処理されました。
 戦後(昭和20年)、隣組は廃止され、新たに自治会組織ができました。ただ、これは今日のような自治会ではなく、最初は当時の世相を反映して、地域の防犯自衛が活動の主体でした。事務所は、戦前から千里山会館に置かれていました。